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特集:towards2010「The White Imperative ~人間の多様性に対する我々の責務~」1/3

2010.05.24掲載

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「towards 2010」は第3回国際ユニヴァーサルデザイン会議2010 in はままつ」の開催に向け、海外の有識者の方から会議への期待や議論すべき課題などについて、IAUDニュースレターの巻頭特集として寄稿していただいたものです。

※このコンテンツはIAUD Newsletter vol.2 第12号(2010年3月号)に掲載されました。
原文(英語版)はこちらをご参照ください。


変化への挑戦

シンガナパリ・バララム
DJ デザイン・アカデミー(インド)教授


世界は今までになく急速に変化しています。

世界は今日、もう異なる国で成り立っている訳ではありません。通信革命やグローバリゼーションのお陰で世界はひとつになりました。

世界はもはや球体ではありません。トーマス・フリードマン(Thomas Friedman)が正しくも述べているように、世界はフラットです。距離はなくなり、時間は瞬時となりました。情報はボタンひとつで入手でき、コミュニケーションは“いつでも、どこでも”可能となりました。

デザインも当然ながらこの変化への挑戦と無関係ではあり得ません。デザインの定義についての今までの見方は変化しました。

デザインは今やもう問題を解決する活動ではなく、人に満足を与える職業です。機能や楽しみから形が生まれるのでなく、人から形が生まれるのです。

デザインには古いしきたりに挑戦する力があり、またそのことがQOLや社会環境を改善していくという類のない能力を持つただひとつの職業です。デザインにはまた、市場の動向に影響を与えたり、日常生活での社会・文化面の経験を改善するという他にはない能力があります。人の物の見方に影響を与えることができるという意味でデザインには偉大な力があります。偉大な力には偉大な責任が伴います。

信頼できるデザイン教育によって若者の心に優れた価値体系を植えつけなければなりません。デザインすることで人々に統合された社会を作ろうという気にさせるべきです。しかし現在、携帯電話やコンピュータ、アイポッドなどの必須アイテムによって個性が過剰なまでに助長され、社会はばらばらになりつつあります。

ユニヴァーサルデザインは、インクルーシヴデザインやアクセシブルデザインと同義か?

ユニヴァーサルデザイン(UD)、インクルーシヴデザイン(ID)やアクセシブルデザイン(AD)の相違点とは: UDは物事や環境面で何も特化しないことに重きを置いていますが、一方IDは排除しないことを重視し皆のノーマライゼーションを唱えるものです。ADは専ら障害のある人たちが利用しやすい製品や建物だけに重きを置いていますが、UDは‘デザインフォーオール’とも言い、障害を持つ人達を含む全員にアクセシブルで利用可能であることを提案しています。

重要なのは限定された用語が何を提供できるかではなく、UDについて幅広い概観を描くことです。UDは社会的なサステイナビリティのために非常に重要な課題であると私は考えています。UDとは本質的に、“個人の特性に敬意が払われる持続可能な社会環境を創る”ことなのです。

社会的な持続可能性は将来、最も重要で欠かせないもの2つのうちのひとつです。

  1. グリーン・インペラティヴ*:生態学的サステイナビリティ:自然の多様性に関する問題
  2. ホワイト・インペラティヴ*:社会的サステイナビリティ:人間の多様性に関する問題
    *訳注:インペラティヴとは、責務あるいは回避できないもの

白色は全ての異なった色の鮮やかな統合であり、世界を美しく見せてくれます。サンスクリット語では“Shweta”と言い、知性と悟りを表します。

UDとは違いを受け入れる姿勢であってスタイルではない

世界的にみて健康が改善し高齢化も進み、多くの人々が疾病、けが、先天異常を乗り越えています。このことは緊急のグローバルな関心事となり、UDに対する見方を変えました。

WHOは2001年、障害を相関性のある経験として再定義しました。障害を“ある決まった割合の人工区分に現れる現象ではなく普遍的な人間の経験”とみなしています。デザイナーにとって重要なのは、障害を環境と個々人の相互作用の副産物であると見直していることです。

UDの全体的な課題は以下のことに煮詰まります:すなわちUDとはいかなる形であれ現れる違い、多数者としての“我々”と少数者としての“他者”との違いに対する我々の姿勢なのです。H.G.ウェルズ(H.G. Wells)の見事な著作“the Valley of the Blind”(盲人達の谷)にあるように、誰が正常で誰が異常かを数が決めます。この“違い”と“他者”の概念は、現代のデザインを学び実践するには欠かすことができません。

ノーマライゼーションというのは違いをないがしろにすることでも、“他者”を“我々”として受け止めることでもありません。どちらも誤りです。違いは認めなければならないが、同情や見下した扱いをすることではなく、尊重され促進されるべきです。

“違い”のない生は停滞し、“他者”がいない社会は完全ではありません。

違いとは敵ではなく仲間か?

“世界を動かしているものは、様々な違いの間の相互作用であり、それらの間の引力や斥力なのである。生は様々であるが死はひとつである。” ―オクタビオ・パス(Octavio Paz)

“問題はいかに違いを取り去るかではなく、いかに色々な違いを巧みに一体化させるかである。”―ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)

違いというのは変化であり、変化は避けられないばかりか生きるにはなくてはならないものです。身体を横たえた人間が寝返りを打てなければ床擦れになってしまいます。花瓶の中の花のように美を創造するには違いをうまく体系づけることが必要です。

違いは分裂や同族主義を導くのではなく、交流によって相互に高め合うべきです。

違いについての我々の体験には4種類あります

  1. 経験したことがない
  2. 一時的に経験したことがある
  3. 中間的な違いの経験
  4. 先天的な違い

違いに関する姿勢を推し進めるためにこの分類は重要です。

≪次のページに続きます≫


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